長谷で“ドーナツ”と言えば、これ。昔ながらの味を守り続ける奥原菓子店の「ドーナツ万十」です。お店があるのはなんと長谷の最奥部、杉島地区。生活をするのにも商売をするのにも、決して便利とは言えないこの場所に、菓子店があるのはなんだか不思議ではありませんか? その謎を紐解きに現地を訪ねると、長年愛されるドーナツ万十のルーツと、かつて林業で栄えた杉島の歴史が見えてきました。(産直新聞社編集部・上島枝三子)
あんがぎっしり「ドーナツ万十」
直径約7cm、厚さ約2.5cm。まあるくしっかりとした生地の中には、口どけの良いこしあんがたっぷり。あんは白か黒の2種類があり、どちらも甘すぎず飽きのこない素朴なおいしさ。シンプルだけど食べ応えのある、どこか懐かしいあんドーナツ。これが、杉島名物「ドーナツ万十」です。
白あんと黒あん。どちらもあんがぎっしり。1包装5個入り600円。白あんと黒あんがランダムに入っています。種類は選べません
「添加物はもちろん、卵やバターも使ってないんですよ。みなさんにおいしく食べてもらいたい」。奥原菓子店の2代目店主の秋山勝子さん(83歳)は、そう朗らかに話します。
優しいお人柄がすてきな秋山勝子さん
この店のドーナツは、すべて勝子さんの手づくり。小麦粉をこねた生地で特注のあんを包み、油で揚げる、砂糖をまぶす。そんなシンプルな工程でつくるからこそ、あんの包み方や良質な油にこだわり、ひとつひとつ丁寧につくられています。この味を求めて、市内外からお客さんが訪れるほど根強い人気があります。
奥原菓子店。看板には、大きく「杉島名物 ドーナツ万十」の文字
山あいの小さな集落で、店を守り続ける
さて、この奥原菓子店がある長谷杉島地区が一体どこにあるのかというと、伊那市の中心部から40分ほど車を走らせた山あいの小さな集落。長谷の玄関口である「道の駅 南アルプスむら長谷」からみても車で15分ほどかかる奥まった場所にあります。
道の駅南アルプス村にある看板。杉島地区は右上
国道152号線から長野県道212号線に入り、三峰川に沿ってさらに奥に進む
杉島は山々に囲まれた小さな集落。道は整備されているのでアクセスには困りません
現在は、40世帯ほどが暮らしていますが、生活や商売をするのに決して便利な場所とは言えません。ではなぜ、奥原菓子店はこの場所にお店をひらくことになったのでしょうか?
ひなびた風景に刻まれた森林鉄道の記憶
かつて長谷は林業のとても盛んな地域でした。特にこの杉島集落には森林鉄道の発着所があり、ここを起点にさらに山深くまで鉄道が伸びていました。山から伐り出された木材は、杉島を貯木場としてトラックで国鉄(現伊那北駅)まで運び出されました。また、杉島のさらに奥にもいくつかの集落があり、そこに暮らす人々は通勤や通学、生活の足として森林鉄道を利用していました。多くの人々が働き、行き交う様子から「杉島銀座」「杉島新宿」などと呼ばれるほど、たいへん賑わっていたそうです。
勝子さんが大切に保管していた、当時の様子をとらえた貴重な写真。河川沿いに線路が敷かれ、中央には木材が山積みになっている
奥原菓子店は、そんな昭和の最中、先代である勝子さんの父・奥原平三さんがひらいたお店です。松本の製菓学校でお菓子作りを学んだ平三さんは、さまざまな種類の和菓子や洋菓子を幅広く作るお菓子作りの名人だったそうです。
活気あふれる杉島の地で、店は人々の憩いの場としてたいへん繁盛しました。しかし、昭和34年の伊勢湾台風の影響を受けて、三峰川上流が氾濫。杉島集落も甚大な被害に遭いました。幸い死者は出なかったものの、その水害によって、貯木場も奥原菓子店も流されてしまったそうです。さらに、森林鉄道が寸断され廃線となると、鉄道を利用していた周辺の集落もしだいに移り住んでいったと言います。
今の店舗は、元あった場所より一段高いところにご近所の力も借りて建て直したものです。
店内に飾られた先代の写真
勝子さんはお嫁に行ってからも店を手伝っていましたが、昭和60年頃、体調を崩した父の代わりに店を引き継ぎました。
「なんとか父の味を絶やさないようにと思って、今も作り続けています」
開業から約90年。勝子さんが大切に守り続けている“父の味”は、そのおいしさと稀有な立地からたびたびメディアにも取り上げられ、長谷の隠れた観光スポットにもなっています。
ちなみに、飯島町の「茶房どーなつ庵」は、勝子さんの娘さんとお孫さんが営むお店とのこと。杉島名物「ドーナツ万十」は、親子4代にわたってしっかりと受け継がれています。
家族の団欒の真ん中に
「ドーナツ万十」目当てに店を訪れたお客さんに、杉島の観光案内もする勝子さん。気さくな人柄が魅力
店を訪れたお客さんに、このドーナツの魅力をきいてみました。
「懐かしい味。たまに、無性に食べたくなるんですよね」
「白か黒、どちらが出るかは食べてみてのお楽しみ。家族みんなでわいわいするのが我が家の恒例!」
この日は、道の駅の商品が売り切れだったため、わざわざ杉島まで買いに来たのだそう。勝子さんにとっての父の味は、食べる人にとっても家族の団欒の真ん中にあるのですね。
「杉島は、春になるとヤマツツジやヤマザクラが咲いてとてもきれいですよ」と勝子さん。
長谷の四季折々の美しい自然を楽しみつつ、ドライブがてら杉島まで足を伸ばしてみてはいかがでしょうか。
・店舗情報
長野県伊那市長谷杉島1450
連絡先 0265-98-2773
営業時間 10時〜17時頃まで(不定休)
※店舗のほか、道の駅南アルプスむら長谷内ファームはせでも購入できます。売り切れの場合は、電話で確認後店舗に向かうのがベター。