長谷ってどんなところ?

2021.4月

【長谷プロジェクト完】過疎をくい止めて この先も存続し 発展するために

「米作りは今年で終わりにする・・・」と、父が農業から手を引いてから1年が経つ。父はそう決意してまもなく、この世を去ってしまった。それから半年が経ち、田を引き継ぐ形で耕作してくれた吉田さんの米が収穫期を迎えた。吉田さんにとって、あてにしていた相談役を失った中で、本業の余暇をぬっての初陣は、手間もかかり、いろいろな苦労があったようだ。最終号では、吉田さんが人力頼りに有機農業に挑んだ中で感じたことを掲載する。それこそ、実家の田んぼの「リアル」であると思うから。

(産直新聞社編集部・丸山祐子)

 

一年間やってみて分かったこと 吉田洋介

今年、伊那市長谷地区にある西村孝さんの田んぼ三枚、合計70aを借りて、うち二枚計50aをあきたこまちの水田に、一枚20aを畑にしてキビを栽培しました。これまでに紹介された通り、水田もきび畑もすべて無農薬、無化学肥料で栽培し、天日で乾燥を行いました。肥料は作付け直前に発酵鶏糞を10aあたり軽トラック2台分ほど撒き、耕起しました。

ここ長谷地区は南アルプスから流れ出る三峰(みぶ)川に沿って南北に伸びた狭い谷で、圃場も斜面に張り付いたような小さなものが多いです。一枚あたりこれほど広い圃場を借りたことが今までなかったために、人力に頼る私のやり方でどこまで通用するか不安もありましたが、従来のやり方でチャレンジしてみました。

結果はあまり芳しいものではなく、これより不本意ながら言い訳と反省点をつらつらと挙げていくことにします。

 

〈その一〉広さ

まず、なんといっても広かった!当たり前ながら。稲の植わった間を、手押しの除草機をカシャカシャ言わせながら歩きましたが、あまりの広さに二枚の田んぼをかけ終えるのに交代で三日かかり脚はパンパン。結局本来なら三回かけるところを最初の一回で断念してしまいます。

除草から十日後の7月8日。久しぶりに圃場を見に行くと、すでに真ん中あたりにうっすらとヒエが繁茂していました。「マズい」、と思いつつ見て見ぬふりをしてさらに十日。芝生のようだったヒエは草原のように圃場全体に広がっていました…。

こうなるともう手遅れ。手押しの除草機ではどうにもなりません。どこに稲のすじがあるのやら、とのんきなことを考えながら「この広さを人力だけではやっぱり無理やで」と心の中で言い訳をしていました。

 

〈その二〉肥料、もしくはアルカリ分の不足


初めて作付けを行う圃場ではたまにありますが、手をかけても生育がよくなく、背丈も伸びずに収量が上がらないときがあります。これは水田だけでなく、雑穀にも言えることです。収穫後に鶏糞と一緒にもみ殻などの燻炭を入れることで次年度には解消されますが、借りた圃場の酸性度が強くなっていたのかもしれません。ヒエの少ない所でも背丈が低く、穂も小さい個体が多かったです。

 

〈その三〉スズメ・ハトの 襲撃を受ける


これはキビの畑についてですが、穂が実り出したころからスズメ、ハトの襲撃を大いに受けました。丸山さん経由で聞いた話では近所の人に「谷じゅうのスズメやハトが来ているのかと思った」と言わしめたほど集まっていたそうです。小さな圃場なら鳥よけの網をかけることもできますが、縦30m、奥行き60mの巨大な圃場ではどうにもならず、見回りに行っては悪態をつきながら小石を投げる毎日でした。おかげで学生の時以来、久しぶりに肘や肩を痛めることにもなりました。

結果として今年得たのは米が25俵、キビが180㎏でした。化学肥料を使い、除草剤でヒエを抑える慣行農業では10a10俵の収穫が目安なのでその半分でした。私の目標としては10aあたり7俵を立てていますが、それと比較してもかなり低いものとなりました。キビは他の圃場が10aで200㎏近い収穫になることを考えると、こちらもほろ苦い結果となりました。

ただ、反省点ばかりでなく、思っていたよりも楽に終える仕事もありました。それは稲刈りです。

バインダーで刈り倒した稲束をはざに掛けていく仕事は三日で終了しました。20人くらいの人がいないと終わらないんじゃないか、と恐れていましたが一人が刈り倒し、それを二人の人間がはざ掛けしていくと意外に早く終わることが分かりました。それは脱穀や、わらの裁断についても言えたことで、これは来年以降、さらに圃場を広げる時の計算の目安になります。

また、野鳥の襲撃も、スズメどもにもっとも好まれるキビを撒いたことが敗因です。彼らはくちばしで器用に殻を取り、黄色くて甘い中身だけを上手に食べていきます。そのため、襲撃を受けた圃場の地面は落ちた殻でキラキラと光り輝きます。

鳥の好むキビやアワは網のかけやすい小さな圃場に撒くことにし、大きな圃場にはタカキビやシコクビエといったえぐ味が強くてあまり鳥が食べない雑穀を撒くように変更することで被害もかなり防げるはずです。

これらの反省を踏まえ、来年以降は一年を通して草の少ない、小鳥の襲撃を受けない圃場を確保することが課題です。無農薬、無化学肥料の方針は変えないので、機械の力を最大限活用できるよう、なんとか乗用の水田用除草機だけでも入手することにしました。

ご好意で圃場を貸してくださった故、西村孝さんの顔に泥を塗ることにならないように。

 

最後に


最近、テレビやマスコミなどでは、元気な中山間地域とその取組みを紹介する番組が増えたと感じる。そこには、行政からの手厚いサポートや地域外からの意欲的なオファー、それに応える地元の立役者がいるのではないか。きっとそれは、本当に一部のラッキーな中山間地域だと思う。長谷地区のように、小さな挑戦は続けつつ、先に光を見いだせないで喘いでいる農山村は多い。

父の田んぼの様に吉田さんのおかげで休耕田を免れた田、すでに放棄地となって荒れた田、今期で終了という田など、地域を見渡してみて、悩みの渦中の田んぼが点在している。

今回、故郷に足を運び、地域の農家の生の声を聞く事ができたことは大変うれしかった。私がこの地を離れた40年前に比べて、過疎が進んでいることは、夜の民家の電灯が証明している。当時から耕作放棄地を再生したり、地域資源を活用して若者を呼び寄せる策を試みたり努力をしてきたと聞いた。それは、過疎を抑えることはできなかったが、そのスピードを緩め、ここまで持ち堪えてきた。長谷地区が今後存続し、発展していくのは、今からが本当の勝負だと思う。

これまでも書いてきたとおり、私の故郷は「おいしい米」をとるための最適な気候・水・土という資源が備わっていて、設備も整っている。ただ欠けているものは、「誰がやるか」、「やって暮らしが支えられるか」だ。

羽場さんの様に、農村協働を興して長谷の認知を上げようと頑張る地元農家、吉田さんの様に、長谷の自然環境を好きになり、新規就農する若者、(本連載では触れなかったが)転作助成金や中山間地交付金などを使って現場を応援する事業を立ち上げようとしている私の幼なじみ、これだけでも人材はそろっている。

取材をする中で、すぐにでも若手の雇用、農地の集約が必要だと改めて思った。村出身の若手のリーダーがいたら、この現状を打開できるかも知れない。村に暮らす旧来の農業者と新規就農者の間のファシリテーターの役目を果たせるリーダーが必要だと感じた。

高校卒業と共に、他県に出てしまった私が、実家のあるこの長谷地区に帰るのは、年に数えるほど。特産のお米や野菜、加工品や山の幸をいただくばかりで、恩返しをしてこなかったことを今になって深く反省している。今からでも、私が村にできることを探していきたい。

 

※この記事は「産直コペルvol.21(2017年1月号)」に掲載されたものです。

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