長谷ってどんなところ?

2022.3月

【木楽茶屋】景色も食べ物もコーヒーもオーナーのお話も、そこで過ごす時間のすべてがご馳走のカフェ

70歳を超えているとは俄かには信じ難い、バイタリティあふれる志村千惠子さんが切り盛りするカフェは、供される食べ物やコーヒーが美味しいだけじゃない。一隻の屏風絵のような窓からの景色も、長谷・黒川で暮らしてきた20年に及ぶ経験から紡ぎ出される濃ゆーいお話も、そこで過ごすゆったりとした時間も、すべてがご機嫌な最高のご馳走です。(産直新聞社編集部・中村光宏)

 

 

 

鹿も出没する道の先にあるカフェ

 伊那市街から長谷へのドライブは楽しい。三峰川のほとりや左右に広がる広大な田畑の中を真っすぐに走るナイスロード。遠く大パノラマの入笠山から鹿嶺高原に連なる山々を眺めながら三峰川橋を渡ると、それに続く県道209号・沢渡高遠線も三峰川を逸れるまでは右に田畑、左に川を見ながらの快適なドライブルートだ。

 

どこまでも続くと錯覚するような、開放感抜群のナイスロード。入笠山から鹿嶺高原の山並みを望む

 高遠市街に入って右折し、一直線に600メートル延びる白山トンネルを一気に抜けると前方にはドカンと南アルプスの女王、仙丈ケ岳が目に飛び込んでくる。10分も走れば、道にはアップダウンが加わって山がどんどん近づいてくる。そして道は、いつしかご機嫌なワインディングロードに変わっていく。解放感あふれるナイスロードからわずか20分とは思えないそんな変化もまた、走っていてとても気持ちいい理由だ。

目的のカフェ「木楽茶屋」は標高約1000メートル。長谷・黒河内の黒川集落の最下段にある。わずか十数軒の家々は、一様に絶壁にへばりつく様に建っている。「今の法律では、この地区にはもう新築の家は建てられないんですよ」とオーナーの志村千惠子さん。その言葉を裏付けるように、家々に向かう道は油断したら転げ落ちそうな急坂だ。

 

オーナーの志村千惠子さん。取材日は、ひな祭りに近かったため、お店にはひな人形が飾られていた。志村さんのお客さまへのおもてなしのひとつだ

 

そんな黒川集落への道のりはいよいよ緑が濃くなって、木々の間を縫うような小気味いい上りのワインディングが続くのだが、もちろん飛ばし過ぎにはご用心。道幅が変化するセンターラインもない道だから、対向車に注意することはもちろんだが、よく鹿や猿も(時には熊も!)出没するという。

 

木楽茶屋周辺のワインディングロード。撮影日はまだ雪が残っていた。除雪がされていても、その雪から溶け出し道を横断している水が、日陰では凍っているようなこともあるので注意が必要だ。ちなみに当日は、この先で鹿に遭遇しました

 

山と川を窓というキャンバスに描く

 ステキなドライブルートの最後に待っているのは、お店へのアプローチになっている10メートルほどの急坂だった。登り切ったところはクルマが2台入れるかどうかという小さな駐車場で、木楽茶屋はその奥にポツンと建っている。アプローチの入り口にある木製の看板と、何かが営業していることを感じさせる幟旗がなければ、下から見上げるその建物は普通の民家にしか見えない。それもそのはずで、このカフェは志村さんのお住まいでもある―—というのは話が逆で、元々の志村さんのご自宅の一部を改装したカフェなのだ。

 

外観は民家そのもの。引き戸の玄関もご自宅兼用だ。「お食事処」の幟旗がなければお店には到底見えないから通り過ぎないようにご用心

 

 普通の民家の玄関そのものの引き戸をガラリと開けて、中に入ればそこは別世界だ。まず目に入るのは、囲炉裏も設えられた無垢材の板の間と竹細工が見事な天井。奥の壁は朱と黄土色、2色に塗り分けられた土壁が美しい。店内(リビング)は縦長で、圧巻なのはそのフォルムを活かした横幅約5メートル、高さ1.8メートルはあろうかという巨大な窓と、そこからの長谷の景色だ。窓越しに遠く戸倉山を望み、その手前に連なる山々がカフェを守るかのように手前まで延びているのが見える。下に目を向けると、川底まで見通せそうな手つかずの黒川の清流が美しい。

 

小上がりを通り過ぎ、店舗スペース(リビング)に入った瞬間。こだわりの窓は、写真右端からさらに倍ほども延びていく

 

「コーヒーにも料理にも自信があるけど、この景色が当店の一番のご馳走かもしれませんね。山と川。ここからの景色には、子どもたちが故郷の絵を描く時に必ず登場するシンボルが揃っているでしょ。それに、幸いにもここからの景色には、目に届く範囲に電線などの人工物がまったくないんです。この素晴らしい景色を一隻の屏風の絵のように表現するために、この窓を作る時だけは大き過ぎず小さ過ぎずとこれ以上ないほど真剣に考えて、大きさだけじゃなく設置する高さにもこだわり抜きました(笑)」(志村さん。以下、略)

 

 取材時は真冬で、まだ蕾すら見ることは叶わなかったが、窓の外には1本の大きなソメイヨシノの木がある。満開の時の屏風絵は、さぞかし華やかに違いない。そしてその真下には、小さな2人掛けのガーデンテーブルセットが1組。きっと春の特等席だ。

 

2020年の桜の時期の写真より。左に山と川が一望できる。ガーデンテーブルが特等席であること、お分かりいただけました?

 

「桜の季節は、屋外のこの席目当てに遠方からもお客さまがいらっしゃいます。ウチは予約を承っていないので、お待ちいただいてしまうこともあるのですが、皆さん、こちらが申し訳なくなるくらい辛抱強くお待ちくださるんですよ」

 

古民家風の立派な梁と竹細工の天井、紅柄そのものを塗り込んだという朱の土壁、そして萌黄色の暖簾(開店時のお祝いにいただいたものだそう)が美しく調和する店内

 

カフェはこうしてはじまった

ここまで読むと志村オーナーが土地の人のように思われた人もいるかもしれない。しかし、実は2003年4月に千葉県千葉市から移住したIターン組だ。ともに山好きだった志村さんご夫婦は、それまで足かけ12年ほど趣味の山登りをしながら、山とともにある生活を夢見て移住先を探し続けていたという。

 

「東北から九州まで色々なところを見に行きました。条件は2つ。子供たちが遊びに来やすいよう交通の便がいいところ、そして水が美味しいところでした」

 

 ご夫婦ともに「いいね」と感じる場所は数多あったというが、それがなぜ、最終的に長谷になったのかと問うと「実は偶発的な出来事があったんです」という答え。いわく、普段は山梨側から登っていた南アルプスの登山道がたまたま閉鎖されていて、長野側から登ることになって初めて長谷に来て、登山口の上にある黒川集落で見た景色に、ご夫婦ともに魅了されてしまったのだという。

 

志村さんご夫婦が惚れ込んだ風景を少しだけご紹介。人工物が一切ないのが分かる。下の写真は2020年の桜の季節

「長谷を見た後、どこに行っても長谷の方がいいね、という会話になって、この家を買わせていただきました。しばらくは時おり訪れる場所のはずだったんですが、ある日、帰宅した主人がいきなり『会社を辞めてきた。長谷に住もう』と。私はたまたま足を骨折していたんですが、唖然とする暇もなく、それからわずか1カ月で松葉杖をついて引っ越してきました(笑)」

 

 子供たちが遊びに来れるよう、店舗スペースになっているリビングを増築したのが2007年。当初は家族や友人たちの団欒の場だったその場所を見た友人たちが、普段使っていないのはもったいないとエールを送ったことをきっかけに、60歳を過ぎたら好きなことをしようと思っていた志村さんご夫婦が、その場所にカフェをオープンするのは移住して9年後のことだ。

 

店舗となった今は、お客さまも暖を取るという囲炉裏。気持ちよさのあまり、囲炉裏端で、グッスリ寝てしまう人もいるとかいないとか(笑)

 

 ところが開店して1年後、ご主人が山で急逝。絶望の中、志村さんはしばらくの間、木楽茶屋を休業してしまう。しかしここでも、友人たちやご近所の方々から多くのエールももらい、3カ月後には再開。今は一人で暮らしながら、わずか1年で周囲の方々にはなくてはならないオアシスになっていた木楽茶屋を営業している。

 

 

コーヒーとワッフルの味で勝負

 実は志村さん、コーヒーが苦手なのだそう。だから、ここでも志村さんの凝り性が覚醒する。「コーヒーの苦味や酸味が苦手だったんです。そんな私が美味しいと感じるコーヒーなら絶対に受け入れていただけると思いました」と、たまたま知った山梨県甲府にあるコーヒー店に2週間通いつめて、店主にコーヒーと淹れ方のイロハを教えてもらいながら豆のブレンドを研究し、4種類の豆を使った、完全オリジナルの「木楽茶屋ブレンド」を生み出してしまったのだ。

 

木楽茶屋のコーヒーは、ドリップ式(税込400円)とサイフォン式(同500円)から選べる

「そのコーヒー店には、豆を購入するために、今も月2回は片道2時間かけて通っています。ご店主は『もう貴方に教えることはない。豆は送るから』と言ってくださるのですが、お店に行ってその都度コーヒーを見つめ直すことは、私の楽しみでもあるんですよ」

 

 コーヒーのプロに、もう教えることはないとまで言わしめた志村さんのコーヒーは、立て方をドリップとサイフォンで選べる。いずれもマイルドだけどものすごくコクがあって、この一見相反する要素がどうして同居できるのか皆目分からない。窓の音の景色に見惚れて冷めてしまっても味が変化せず、美味しく飲めるのにも驚かされた。

 

 もうひとつの看板商品であるワッフルの自慢は“カリフワ”食感だ。

「もともと家族全員が好きだったんです。その当時から、私がこだわっているのは表面がカリッとして、噛んだ瞬間にフワッと口に広がる感じ。よくお客さまに、この食感はどうやって出しているのか聞かれるんですが、ごめんなさい。それは企業秘密です(笑)」

 

 現在は、長谷中学校の生徒が開発した地域の特産品「八房トウガラシ」を使ってブレンドした自家製七味トウガラシをはじめ、ココア、アールグレイ、コーヒー、抹茶、セサミ、アオサ、プレーンという8つの味と、ドライフルーツ入りなどのオプションが楽しめる。

 

看板メニューのワッフル(税込400円。ドライフルーツはオプションで+100円)。外がカリッとしている様子、お分かりいただけるだろうか

 

「美和ダムカレー」が食べられる唯一つのお店

 木楽茶屋の正式名称は「珈琲とワッフルの店 木楽茶屋」。しかし、そこにはない名物がまだまだあるのもこのお店の魅力だ。例えば、紅茶はセイロン一筋。それは志村さんが、かつてオイスカのメンバーとしてスリランカにボランティアに行っていたことが起因している。

 

「現地は、もちろん生水の飲水はNGだったので、訪問する先で入れてくださる紅茶ばかり飲んでいたんですが、高級茶葉を使っている訳でもないのにすごく美味しかったんです。それを教わって帰国しているので、茶葉だけじゃなく淹れ方もこだわっていますよ」

 

レモンスカッシュは1杯にレモン2個を使い、リッチでフレッシュなフレーバーが愉しめるし、当初は冬季限定メニューだったのだが、ファンの熱烈な要望で定番メニューとなった「珈琲善哉(コーヒーぜんざい)」は、小豆をオリジナルブレンドで煮て、そこに敢えて少し焦がした焼き餅を入れるスペシャルメニューだ。

 

右上から反時計回りに、「オムライス」(税込900円)、「おかんのうどん」(刻みショ
ウガ入りオニギリ1ケ付きで同700円)、「ミネストローネとバターライス」(同800円
)、そして「珈琲善哉」(同500円)。食事の全メニューにデザートとコーヒーが付く。

 

しかし、それにも増してオススメしたいのがお食事メニューの数々だ。その名も「おかんのうどん」は、子供たちの「おかんのうどんしかないでしょ!」という一言で最初に決めたメニュー。兵庫県芦屋市出身の志村さんが作るうどんは、最初に昆布でしっかりと出汁を取り、ショウガがほんのりと香る逸品。遠く京都・丹後から転勤で伊那に来ている常連さんが最初に注文した時、「この味を長野で食べられるとは思わなかった」と涙したほどの本格の関西風うどんだ。

 

ご主人が大好きだった「ミネストローネとバターライス」は、長谷産の完熟トマトから、志村さんが一晩クツクツと煮込んで作ったトマトソースをベースにしている。陽光をいっぱいに浴びた長谷のトマトの風味を存分に味わえるのが特長。同じく長谷産の野菜をふんだんに使った具沢山だからボリュームも満点だ。一方で「オムライス」は、ご本人が好きだというだけに、調理にはついつい力が入ってしまうという自信作。ケチャップライスの上に文字通りドサッと大量に乗る“フワトロ”系の卵と、長谷産完熟トマトから作るフレッシュトマトの風味いっぱいのソースが癖になる。

 

ケチャップライスはあっさりで、甘味と酸味が絶妙な長谷産トマトのソースは濃厚。そのバランスの良さがたまらない。付け合わせの野菜もシャキシャキだ

 

そして、それらのフードメニューの頂点に君臨する大人気メニューが「美和ダムカレー」だ。昭和34年の完成以降、治水や灌漑、水力発電に利用されている美和ダムにオーソライズされていることはもちろん、日本ダムカレー協会に認定されていることから、このカレー目当てに、日本全国から“ダムマニア”“ダムカレーマニア”“撮りダム”たちが詰めかけるという。

 

「美和ダムカレー」にはサラダと季節のデザートが付く。写真のデザートは信州リンゴの赤ワイン煮。アルコールはしっかり飛ばしてあるので運転して帰れます

 

ダムカレー開発秘話

 しかし、まさか志村さんが筋金入りのダムマニアとも思えないのだが、トップの写真でも紹介している美和ダムカレーとは一体どんなカレーで、どうやってできたのだろう?

 

「開店5周年の記念メニューとして主人が好きなカレーをメニューに加える際、どうやってアレンジしようかと考えて、以前から気になっていたダムカレーにしようと思ったんです。早速、私なりにイメージして試作品を作り、美和ダムの事務所に押しかけました。そうしたら、所長さんをはじめ皆さんが感激してくださって、その後の改良に色々とアイデアをくださったんですよ」

 

 ダムで働く現場の意見が随所に反映されたカレーは、美和ダムらしさが随所にちりばめられているのが特徴。多目的ダムとしては初採用となった、上流に溜まる土砂を逃がす土砂バイパスをちくわで、その吐水口を半熟卵で、ダム下流部の水面の青さをホウレンソウカレーで表現するだけでなく、オプションで上流部の水面(ポークカレー)に分派堰役のハッシュドポテトと流木役のチーズをトッピングできるというディテールがマニアにはたまらないという。

 

2年に一度開催される、ダムマニア、ダムカレーマニアの祭典「相模湖ダムマニア展」に向けて制作した「美和ダムカレー」の説明用模型。流木などもよく分かる

 

「おかげさまで、日によってはカレー屋さんになったかと錯覚するくらい。皆さん、せき止めているチキンナゲットをずらして、『ダム、決壊します!』なんて独り言ちながら2つのカレーを混ぜたりして、思い思いに楽しみながら食べてくださっています。おかげさまで、今では自分もすっかり一端のダムマニアですよ」という通り、ダムの話になると、志村さんはがぜん雄弁に。「美和ダムはね、重力式コンクリートダムといってそれ自体の重みで支えるタイプ。男らしい形がいいのよ。他にも黒部ダムに代表されるアーチ式という優雅なスタイルもあるし、岩石を積み上げて作るロックフィルというタイプもあるよ。私は、もちろん美和ダムも好きだけど、ロックフィルを採用する九頭竜ダムが大好きなのよ(以下略)」と話が止まらなくなった。

 

マニア垂涎のダムカードとダムカレーカード。「美和ダムカレー」版は、もちろん木楽茶屋でも買えます(税込200円/1枚)

 今も気が向けば、布団一式を積み込み、愛車の軽1BOX車を駆って車中泊しながら、時にはダムを訪ね、時には山に登るために日本全国を旅しているという志村さん。ダムや山、お料理の話はもちろん、移住の心得から車中泊での旅の思い出まで、その話題の豊富さはとてもここに書き切れるものではない。今年は開店10周年で、今春にはワッフルをベースにした記念メニューも登場するそうなので、続きは是非、店に行って、ご自慢のコーヒーと新作ワッフルに舌鼓を打ちつつ、ご本人からお聞きください。

 

SHOP DATA

「珈琲とワッフルの店 木楽茶屋」

〒396-0403

長野県伊那市長谷黒河内2217

TEL:090-1694-2084

営業時間:夏季/10:00~17:00、冬季/11:00~15:00(新型コロナの対応で、営業日や営業時間が変更されることがあるため、必ず連絡してからお出かけください)

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