長谷ってどんなところ?

2021.3月

【長谷プロジェクトその1】いよいよ父が野良仕事を出来なくなった日の選択

全3回にわたり、東京で暮らす産直新聞社編集部・丸山祐子による「長谷プロジェクト」レポートを連載する。これは、丸山の父親が高齢により稲作を続けられなくなったことをきっかけにして始まった、長野県伊那市長谷地域の休耕田を復活させるプロジェクトだ。


中山間地域における農業は、全国の耕地面積の約4割、総農家数の約4割を占め、日本の農業の重要な役割を担っている。しかし農家の平均年齢は65歳。急こう配の山間部での農作業は、65歳にとってはさぞ重労働に違いない。そのうえに反当りの収穫高は平野部に比べてかなり少ない。個々の小さな中山間地農業は、重要な役割とはいえ、農業をあきらめて離れていくという現実がそこにはある。政府は「人・農地プラン」などとテコ入れはしているが山間部の裾野までは浸透していない。

 そんな折り、父が農業から手を引くことを決めた。春が来るたびに「あと1年」と引き延ばしてきたが、とうとう辞める時が来たようだ。そんな父と私は向き合った。
(文・丸山祐子)

 

来年から、『おらほの田んぼ』は休耕となる

ある日、父がぽつりと言った。

「米作りは、今年で終わりにする…」

予測はついていたことだけれど、いざその言葉を耳にして心痛な気持ちになった。

今年で米寿(88歳)を迎えた父。13年前から前立腺がんを患っていたが、薬でごまかしながら「稲作だけは!」と頑張ってきた。儲からなくても続けてきた稲作。それは、地域に根付いた暮らしであり、地域と共に生きる喜びであり、生きる証だった。先祖から引き継いだ田んぼを次世代に渡すまでの責任だとひたすら農業を続けていたのだろう。

予想に反し、数年前から長男は勤務地を海外に移し実家には戻れず、農繁期だけに帰って手伝うことさえ不可能な状況となった。そんな中、父は昨年の12月から体調を崩して、酸素ボンベに繋がれた生活になってしまった。外出さえままならぬ逼迫した生活の中で、田んぼどころではなくなってしまった。これから先、どうしたものか。

 

「地産地消」はありふれた日常の営みだ


「ここいらの米は、水がいいから他所よりも美味しいんだ!」と父はいつも自慢していた。実家がある長野県の長谷地区は、南アルプスの麓、標高850mに位置する。石がごろごろした農家泣かせの地質だ。私も子供の頃、素足で代(しろ)に入るととがった石を踏んで傷を作るので、稲作仕事を手伝うのが嫌だった。だが、そこで採れる米はとても美味しい。友人にもおすそ分けして、故郷自慢をしていた。

私の実家は、遡ること100年以上前から、米作りを続けてきた。名主の時期もあり、農地改革前は小作を何人も使っていたという。専業農家から兼業農家に移行した後も、水田は休まずに稼働していた。父の代になり、棚田を区画整理し、機械の大型化を進めた。まさか田んぼを維持できない事態が自分の代で来るとは、想像していなかったに違いない。

最近は実家周辺で、雑草が生い茂った耕作放棄地を見かけるようになった。農繁期に帰っても、田んぼに人がいないというさびしい光景がずっと気になっていた。
 そしてとうとうそんな潮流の中に我が家も飲み込まれようとしている。

 

集落営農が機能しなくなったら


長谷は、入り組んだ谷あいの村で、昔ながらの里山風景をそのまま残す長閑な農山村だ。私が物心ついた頃から過疎化は進んでおり、現在、世帯数はたった790軒まで減少した。

長谷総合支所の農政部の担当者によると、現在、長谷地域の米作りは、集落ごとに共同で作業している。グループを組めない所の農家では、個人が持っている機械に頼る。「集落営農によって、米作りができていたのだから、それが機能しなくなったら国からの補助も受けられない。10年後はどうなっているだろう」と父は心配する。

こういう事態はここだけなのだろうか。過疎化と同時に農業が疲弊していくことを恐れている地域はあちこちにあるのではないか。そんな疑問がよぎる。

 

田んぼの借り手が現れる


2016年の正月を迎えたがまだ方向が定まらないでいた。父は自分の農地を県の農地集積バンク(使う予定のない農地を所有者から借り入れて集約し農業法人などに貸し出す制度)に委託しようかとも考えたようだが、こんな山間部では借り手もいなかろうと、はなから窓口に相談する様子もない。ただ「田んぼが荒れるのをただ見ているよりは、蕎麦の種をばらまいてみたらどうか」という短絡的な考えで、蕎麦の種を多量に購入していた。いよいよ田んぼをどうするか。

そんな中、この土地を借りたいという若者が現れた。16年前に奈良県斑鳩町から家族で移住してこられた吉田洋介さんだ。吉田さんは、同地区の道の駅「南アルプス村長谷」内で、雑穀レストラン「野のもの」を経営する傍ら、現在2・5ヘクタールの圃場で、5種類の雑穀と米を有機栽培している。父の田んぼは、そこから5キロ程離れた場所ではあるが、「もう少し圃場を拡張したい」と申し出てくれたのだ。

「今年も自分の田んぼが水を湛えることができる」と、父も胸をなでおろしたに違いない。

そして、農地を守るための最低必要条件として①田んぼの原型を崩さないこと②畔草を年3回は刈り取ることを約束として提示し、吉田さんはこれを了承した。

いよいよ父の田んぼは、吉田さんに引き継がれることとなった。

※この記事は「産直コペルvol.18(2016年7月号)」に掲載されたものです。

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