長谷ってどんなところ?

2022.3月

【入野谷在来のおそば】そば好きなら食べなくっちゃ!~信州三大そば名産地のひとつ「入野谷」。稀有な味と香りを持つそば在来種、復活の軌跡 《前編》

「昔のそばは小粒で、味が濃くて美味しかった」という地元のお年寄りの一言がきっかけとなった“そば在来種”探し。ようやく見つかったわずか20グラムの種の中の6粒からはじまった、その名も「入野谷(いりのや)在来」のそばは、日本各地のそばを知る、こだわりのそば店店主たちをも驚愕させた豊かな香りが魅力です。そしてそのそばは今、長谷の名店『杣蕎麦』など、伊那市内の9店で食べることができます。(産直新聞社編集部・中村光宏)

 

2022228日現在、冬期や新型コロナ対応で休業中の店舗もありますので、各店舗に連絡し、営業をご確認の上、お出かけください

 

信州三大そば名産地のひとつ

 長野県伊那市の高遠と長谷。入野谷とは、それらに跨り、ゼロ磁場のパワースポットとしても有名な分杭峠の南東にある標高1772メートルの入野谷山北面、標高800~1000メートルに広がる地域のことを指します。かつて入野谷郷と呼ばれていたその地域は、江戸時代には「戸隠」「川上」と並び称された“信州三大そば名産地”でした。しかし、その当時食されていたそば、地域固有種のそばは小粒で収量も少なかったそうです。

 

 現在、信州のそばの多くは「信濃一号」というそばを使っています。これは昭和19年に、福島県のそばをベースとして長野県の試験場で誕生した品種で、大粒で収量が多く、育てやすいのが特長。だから県の指導もあって、第二次世界大戦後の全国的な食糧難を乗り切るために、入野谷郷のそばもまた、徐々に「信濃一号」に切り替わっていきました。そばは交雑しやすい植物なので、入野谷郷で昔から育てられていた固有のそば、いわゆる「そば在来種」が姿を消してしまうまでに、残念ながらそう時間がかからなかっただろうと思われます。

手前に広がるのは「信濃一号」の広大なそば畑。奥に見える山の向こうに、標高1772メートルの入野谷山があります(写真=高坂英雄)

 

昔のそばは美味しかった

 現在は、高遠そばの有名店「壱刻」の店主を務める山根健司さんが、そんな入野谷のそば在来種を探し始めたのは2009年のことでした。当時は別の地域のそば屋店主だった山根さんは、07年から公民館の主事を兼務していたのですが、同年の年末、公民館の恒例イベント「そば打ち講習会」で、出来上がったそばを食べる地元のお年寄り衆の会話を偶然、耳にします。

 

「昔のそばはもっと小粒で、味が濃くて美味しかった」

 

 お年寄り衆は70~80歳代。彼らが小さいころに食べていたということは、おそらく昭和30年代とはるか昔のことです。しかし、その声が耳から離れなかった山根さんは一念発起。お年寄り衆が子供時代に食べていたそばの復活を夢見て、当時のそばの種が、どこかに残されていないかを探し始めました。

 

「農家の納屋の隅に蒔かれずに残っているのではないか。誰かが大事に取っているのではないかと、あらん限りの伝手を頼って探し回りました」(山根さん。以下省略)

 

 山根さんは必死に探し回ったのですが、どこに行っても、誰を訪ねても「ない」と言われる日々が続き、いよいよ「もはやどこにも残っていないのか」とあきらめかけていた2012年。山根さんは信州大学農学部の故・氏原暉夫教授の研究室に「高遠在来」「長谷在来」「伊那在来」と書かれたそばの種の入った小さな袋があることを突き止めます。しかし、“在来種復活”の夢が実現しかけたのもつかの間、氏原先生のご親族から貴重な標本なのでと断られ、その夢は再び暗礁に乗り上げてしまいます。

写真左は「入野谷在来」。右は「信濃一号」。入野谷の在来種が小粒であることは一目瞭然!

 

わずか6粒の「そば在来種」

 以降、特に進展もないまま2年が過ぎたある日、いよいよ行き詰まって探索の場をインターネットに広げていた山根さんは、長野県野菜花き試験場の研究員が書いた論文に目が釘付けになりました。そこには「高遠在来」という記載があったのです。もしかしたら、研究室に在来種の種が標本として保管されているかもしれない―—。早速その論文を書いた試験センターの丸山秀幸研究員(現・畑作部 主任研究員)に連絡を取ってみると、わずかに20グラム(約900粒)だが標本が残っているとの返答。そこで山根さんは、伊那市役所や信州そば発祥の地としての伊那の認知に尽力してきた市議会議員の飯島進氏を巻き込んで、勇躍、試験場に丸山研究員を訪ねました。

 

「丸山研究員は『昔、住民の皆さまにご協力いただきお譲りいただいたものなので、それをお返しできるだけでなく地域のために役立つのであれば、喜んで増殖の協力もさせていただきます』と提供に加えて増殖まで快諾してくださったんです」

 

 昔の種なので発芽しない可能性もあるとのことで、播種は約3分の1に当たる300粒で行うこととなりました。そして、奇跡的にもそのうちの6粒だけが息を吹き返し、芽を出したのです。2015年10月に誕生した伊那そば振興会の発起人であり会長を務める飯島議員からは、今後は振興会の事業としてしっかりとやっていこうという「入野谷在来復活夢プロジェクト」の提案もあり、かくして、お年寄り衆がその昔に食べていた“味が濃くて美味しいそば”の復活劇が、“オール伊那”ともいうべき万全の態勢の下で幕を開けたのでした。

2014年に、長野県野菜花き試験場で発見された「入野谷在来」(当時、残されていた資料では「高遠在来(浦)」)。約20グラム(約900粒)の希少な種でした

 

最初の圃場は長谷浦の2畝

 実はそばは、基本的には強い作物で、主要な栄養素であるチッソを与えすぎないようにするために敢えて肥料を与えずに栽培する農家さんもいるくらい。春蒔き、夏蒔きといって年2回の収穫も可能な作物です。栽培も決して難しくはなく、収穫も播種から約75日でできると言われています。

しかし一般的にそばの固有種は、収量が悪いことが多いだけでなく、風に倒れやすいなどの短所も多く、そのために「信濃一号」のような品種改良が各地でなされてきたという歴史があります。特に今回は、研究室で長い間、標本として保存されてきた古い種。発芽するか否かだけでなく順調に増殖できるかについても未知数で、困難を極めることが予想されました。しかし、交雑しないよう網室などで厳密に管理された試験場で芽を出した6粒からは42粒を収穫することができ、その後も年2回の増殖を繰り返した結果、2年後には約1kgの種を収穫できるまでになったそうです。

 試験場からその内の300gをもらい受けた山根さんたち、そして積極的に参画してきた伊那市役所農政部は、信州大学農学部・井上直人教授の指導の下、その種の内の100gを長谷の奥の奥にある浦集落に開墾した2畝の圃場に蒔くことにしました。その畑をつくる際に尽力してくれたのは、前述した伊那そば振興会の委員でもあった伊那市長谷総合支所長の池上直彦さん。山根さんの目には、まさにオール伊那の力が最大限に発揮された、交雑の心配のない最高の2畝に映ったそうです。

浦集落の入口に立つ石碑。平家の里として知られています。源氏に追われた平家が、人目を忍ぶことができたほど山奥に位置する集落です

 

「標高1000メートルの高地で、厳しい冬が長い地域なので、年1回の収穫しかできないのですが、それでも浦を選んだのには2つの理由があります。ひとつには、試験場で見つかった固有種の種が入った茶封筒に「高遠在来(浦)」と書かれていたんです。だから、種を生まれ故郷に戻してあげたかった。もうひとつは交雑の問題でした。そばの交雑は一般的には4㎞離れていないと発生してしまうと言われています。浦は、平家の落人伝説が語り継がれているほど長谷でも最も山の上にある集落であり、幸いにもそばの栽培をもう何年もやっていなかったんです」

そばの開花。白い可憐な花が畑を覆います。「入野谷在来」がすくすくと育つ圃場での1コマ

【後編に続く】

 

〔話してくれた人〕

「高遠そば 壱刻」店主 山根健司さん

兵庫県出身。大学卒業後、大阪本社のメーカーに就職。1995年の阪神淡路大震災での被災をきっかけに町づくりの重要性について考え始め、人や自然との関係性を見直すことにより、お金に頼り過ぎない社会モデルづくりを目指す。2003年、長野県伊那市高遠に移住。

 

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