長谷ってどんなところ?

2022.4月

【長谷住民からのお便り】歴史と花の常福寺

旅の僧、呑海阿闍梨が終の住処として建てた小さな庵をはじまりとして、後に松風峰大徳王寺と合祀し誕生した常福寺。現在は、四季折々に境内を彩る多種多彩な花に囲まれた美しさでも知られる同寺院のご住職の松田泰俊さんが語る、常福寺と同寺院にまつわる歴史の真実。じっくりとお読みください。

 

満開の枝垂れと常福寺の朱塗りの屋根が美しい鐘撞堂の競演。花の常福寺と呼ばれるにふさわしい1枚

 

 

旅の僧 呑海阿闍梨

 文治元年(1185)2月讃岐屋島の合戦で破れた平家平宗盛らは、壇の浦に逃れた。源義経は、同年3月壇の浦におもむき、平家を敗走させた。

 

 敗走した平家の小松内大臣平重盛の長男平維盛と言われる一族は、東海から古道秋葉街道を経て来たのだろうか、長谷の最も奥地、桃源郷浦の地に落ち着いたと伝えられている。

 

 源平激戦の3年後、文治3年(およそ840年前)旅の僧、呑海阿闍梨が、高遠町にある天平17年(745)開基による真言宗香福寺を訪ねたと思われる。

 

 呑海阿闍梨は、香福寺住職と高野山で共に修行を重ねたのではないだろうか。

 

 香福寺にも近い長谷溝口の地を終の住処としたのだろうか、小さな庵を建て、香福寺の末寺としたのが、常福寺のはじまりである。 溝口には、南北朝時代東国における一大合戦の舞台となった松風峰大徳王寺ありしが、後に呑海阿闍梨開創常福寺と松風峰大徳王寺を合祀せし、常福寺となる。 ゆえありて、天正16年(1588)高遠町勝間龍勝寺11世来芝充胤大和和尚開山により曹洞宗寺院となり今日に至っている。

 

華の常福寺と呼ばれる最大の所以が、既設になると咲き誇る境内を埋め尽くす紫陽花。参道が華やかになる

 

常福寺と宗良親王 南北朝時代(1336から1392)南朝の後醍醐天皇は、皇子、護良親王と宗良親王を比叡山延暦寺に入山させた。それは、比叡山の僧兵の力を味方に得んがためといわれている。 宗良親王は僧名を尊澄法親王と称し、20歳で第120代天台座主となられた。 門跡寺院京都大原三千院院主として奉仕していた親王に、征東将軍の宣下がなされた。親王はこの宣下を悲しみ号泣したと三千院の古文書に伝えられている。 宣下を拒むことできず、環俗し海路東国に行く途中遠江に漂着し、井伊谷に入り、のちに下伊那の豪族、桃井・香坂・知久氏らの庇護の下、大鹿に長く滞在し、各地を転戦すると共に、南朝方であった諏訪大社を幾度となく訪ねられたと思われる。 大鹿と諏訪大社を結ぶ街道筋に建つ常福寺は、親王に関する歴史を伝えている。

 

常福寺の山門。石段を登った先では、紫陽花が出迎えてくれる

 

 

【御山の無縫塔】

 常福寺の近くに御山と呼ばれる親王の尊墓がある。

 

 明治の中頃、御山北側灌漑用水路に埋まっていた円形の石碑が発見された。御山頂上から転げ落ちたものと推定される。

 

 昭和6年5月12日、宗良親王遺跡調査に来た郷土史家唐沢貞次郎がこの石碑を見、刻まれている文字を読んだところ、正面に十六弁菊花御紋章の下『尊澄法親王』と書かれてあり、側面には『元中乙丑十月一日尹良』とあった。尹良は宗良親王の皇子である。

 

常福寺の近くにある、御山と呼ばれる親王の尊墓。円形の石碑は、明治の中頃、御山北側灌漑用水路に埋まっていたところを発見された

 

 

【宗良親王御尊像】

 昭和15年5月12日常福寺本堂屋根修理中、屋根裏から煤に覆われた、天台宗様式袈裟姿の僧形坐姿木像が落下した。

 

 像の背に六寸(約20センチ)の祠があり、その中から胎内仏として青銅製の千手観音像と古文書があらわれた。

 

 古文書には「諏訪の大祝家への途路、逆賊に襲われ落命されたこと。奉仕する数人が大徳王寺へお護りしてこられ、賊に親王が薨去された事を恐れ、内密に埋葬されたこと。七回忌に当たる元中八年御子尹良親王が当寺へ来て尊墓を築き、法像を建立したこと等が記され、大徳王寺の僧尊仁が元中八辛未文書にされたとある。」

 

昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根修理中に屋根裏から落下してきた天台宗様式袈裟姿の僧形坐姿木像。煤に覆われてなお柔和で神々しいお姿だ

 

 

【大徳王寺城址】

「我を世に ありやと問わば 信濃なる いなと答えよ 嶺の松風」

 

 これは、歌人でもあった宗良親王が詠まれたお歌である。「嶺の松風」は大徳王寺城のことである。大徳王寺城の戦いは、茅野の神長官守矢家の「守矢貞実手記」により知ることができる。ここには概ね次のように記されている。

 

 「暦応三年(一三四〇年)六月二十四日、相模次郎(北条時行)は信濃国伊那郡の大徳王寺城に、北条残党を集め挙兵した。(中略)時行蜂起の知らせを受けた信濃守護である足利尊氏の下にあった小笠原貞宗は、自分の本拠地がある府中(松本)から、大徳王寺城攻撃のため、一族引き連れ、挙兵から二日後の六月二十六日同城に向け進撃を開始した。(中略)城兵が余りにもがん強のため、貞宗は城の西尾根に要塞を築いて長期戦の構えをして、鎌倉に注進して援軍の要請をした。(中略)時行には援軍がなく、その上負傷者や戦死者が出始め、形成不利におちいっていった。そしてついに十月二十三日夜大徳王寺城は小笠原貞宗により落城した。」

 

 常福寺裏手に「大徳王寺城址」があり、城址からは貞宗が要塞を築いたといわれる西尾根を間近に眺めることができる。

 

 時行は密かに城を抜け出し、二年後新田氏らとともに鎌倉に攻め入っているが、尊氏によって敗走。後に召し捕られ処刑されている。

 

 宗良親王は、越中を転戦していたのだろうこの戦いには見らず、落城三年後大河原(大鹿)にはいっている。

 

常福寺の裏手に立つ「大徳王寺城址」の説明書き。城址からは城主・小笠原貞宗が要塞を築いたといわれる西尾根を間近に眺めることができる 写真 花咲く常福寺の境内

 

 常福寺には、雪の中から顔を出す福寿草・本堂の屋根を越える大木の枝垂桜・つつじ・大輪の牡丹・境内を埋め尽くす紫陽花、更に、夏椿・秋海棠そして白根葵・山芍薬などの花々を、季節ごとに楽しむことができる。

 

 境内を一周する小路も有り、花を楽しみながら散策することもできる。

 

常福寺に花の季節がやってきた。中でも圧倒的な存在感を放つ、色とりどりの大輪の牡丹が咲き誇る姿は圧巻だ
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